特集

【川口の未来をつくる vol.2】
 市内の町工場跡継ぎによる座談会

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 荒川を挟んで東京と隣接し、現在人口60万人を超える川口市。昭和の時代はキューポラの街として知られ、首都圏へ通勤通学する人のベッドタウンと位置づけられることも多いが、ここ数十年大きな変化を続けている。令和3年に減少に転じるまでは増え続けてきた人口、産業構造の変化、外国人住民の増加などに伴い、都市に求められる要素も変化する中、課題も多い。特集では、さまざまな分野・視点から、川口の未来について考えていく。

2回目は、川口の主要産業でもある製造業、市内町工場の跡継ぎ3人に話を聞いた。

栗原精機=栗原匠(33歳、社長、3代目) つい先日、創業50年の節目、51期に入るタイミングで社長に就任した。医療機器や精密機器からラジコンカー、自転車のカスタムパーツなど幅広いジャンルの部品加工を主に行っている。

フジテック=藤田一平(32歳、専務、3代目) 創業60年。各種鋼材のR曲げ加工を行っている。スカイツリーからタンクまで、ありとあらゆる曲げを行い、さまざまな場所で使われている。

マエダ=前田聡悟(36歳、取締役副社長、4代目) 祖父が立ち上げ、父、母に続いて4代目。来年社長を継ぐ予定。金属製品、建材など設計から取り付けまで行っている。大型商業施設などには高い確率で使われている。

 

町工場を営む家に生まれて

―――子どもの頃の川口はどんな印象でしたか?

栗原: 周辺は自然豊かだったが、宅地化が進み環境が大きく変わった。実家が工場の真上で機械が身近にあって当たり前のようにおもちゃをカスタマイズしてくれたりしていたので、小さいときからものづくりに親しんでいた。家の周囲には似たような環境の人はいなかったが、友達がよく遊びに来て、たまり場になっていた。

藤田: 自分は家と工場が離れていて住まいは鳩ヶ谷にあったが、父が忙しかったのでよく工場についていった。工場にゲームセンターの機械があったので、父が仕事をしているそばで遊んでいた。鳩ヶ谷の里も自然豊かで、近くの川でザリガニをとったり、虫をとったりしていた。田んぼもたくさんあった。

前田: 工場は川口の領家にあるが、会社の建物が荒川を挟んで隣接する北区にあり、住まいは社屋の上階にあった。創業した祖父も同じ建物に住んでいて会社の人たちがよく来ていた。

―――最初から跡継ぎになろうと思っていたのですか。

藤田: 学生の頃は、結婚式のウエディングプランナーや飲食関係などをやってみたかった。当時は飲食店でアルバイトをしていて、「サービス業が天職かも」とも思い、どうすれば継がなくて済むかと考えていた。家業は40歳くらいになったら継げばいいかな、と考えていたが、父の楽しそうに働く姿を見て社長業に興味を持つようになり、後になってやるなら今からやった方がいいと父にも言われ新卒で入社した。

前田: 初めはフラフラして自分で何かできることはないかなと考え、現場仕事とか体を動かすのが向いていると思い、ほかのところで荷揚げや防水会社で屋上防水などをやったりしていた。中2の時に社長だった父が亡くなり、母が会社を継いだので、忙しそうな姿を見ていて、いつまでもやらせるわけにはいかないし、いつかは継ぐのかな、と思っていた。職人になろうと思って25歳で入社したが、ちょうど大手ゼネコンの仕事をやっていこうという時期で、工程管理の仕事をすることになった。

栗原: 学生の時はアパレルがやりたかったので、ほかのことをやらせてほしいと言ってアパレルの会社に就職したが、ゆくゆくは継ぐんだろうな、と思っていた。創業した祖父が亡くなる前に一度だけ一緒に飲みにいったときに、製造業でなくてもいいから栗原の名前は残してほしいと言われていた。祖父が亡くなった後、結婚して子どもが生まれ、新卒で就職した会社の仕事も一通りやったと思えるタイミングで退職し入社した。

 

跡継ぎのやりがいと苦労

―――跡継ぎとして会社に入ってみてどうでしたか。

前田: いろいろ決めていかなくてはいけないこと、すぐに解決できないことなどがあるときは、思い悩むことがある。外部の人と関わったり、やりたいことをやりやすかったりするのは後継者という立場だからできるのかな、と思う。人との出会いなどのチャンスも多く、経営の勉強をしたり、いろいろな会社の社長さんの話を聞いたりするうちに、経営者としてやっていこうという決意が出来上がってきた。

藤田: 友達の話を聞いていると、忙しくて盆と正月の年2度しか親に会えないとか。自分の場合は、久しぶりにあったら親がすごく老けていた、ということはないので、幸せなのかな、と思う。経営者は、自分次第でいくらでもお金を稼ぐことができる、ということに夢があるかな、と思った。一方で社員や社員の家族に対する責任の重さを感じ、厳しい判断を迫られることもあるので冷静に考えると大変な仕事に就いてしまったな、と思う。

栗原: 細かい作業を繰り返しやるのは苦手だな、と思っていたが、前の社長が新しいことに取り組み始めていて、自社でオリジナル商品を作ってブランドを立ち上げたり、相談された会社の希望をかなえてあげたりできるとやりがいにもつながる。

―――もともと働いていた方々の反応はいかがでしたか。

栗原: 新卒で働いていた会社が大きな組織だったので、入ってみて、工程管理表とか当たり前にあると思っていたシステムがない、ということに驚いた。長年いる方々が多かったので属人的なやり方が多く、誰かが抜けたときのリカバリーのシステムとか従来のやり方を変えようとしたらすごく反発があり大変だった。まず技術を身につけてから、とも思ったが、それにはすごく時間がかかると気づき、変えるのも自分の役割と考え、変えることによりどういう効果があるか、コミュニケーションを取って気持ちを伝え理解してもらうことに努めた。

藤田: 最初は名前が藤田というだけの一般社員で、大変なことがたくさんあり辞めたくなったこともあるが、自分が会社を変えてくれると社員の人たちから期待されていると感じることもあった。取締役になってからは、一緒に苦労した仲間が盛り立ててくれて、それがやりがいにもつながる。

前田: 入ったときはすんなり受け入れてくれた感じがした。最初、工場や現場を体験しているときは周りの人が現場の仕事をいろいろ教えてくれたが、今の立場になって、これまで受け取ってきたものを返していかなくては、会社を良くするためにどうやって変えていくべきか、と責任をひしひしと感じる。


 

川口の製造業、未来について。

―――川口の製造業についてどう思いますか。

前田: 機械加工とか金属加工とつながりが多いが、製造業として大きな街なのだな、と思う。うちは建設関係が多く、金属加工だったり、塗装だったり、シートを貼ったり、何でも川口市内でそろう。

藤田: 川口の技術レベルはすごく高いし基本何でもできるが、燕三条とか大田区などに比べ認知度が低いと感じる。曲げとか加工は、埼玉・千葉などの技術力は圧倒的に高いと感じる。

栗原: 燕三条とか大田区はギュッと1カ所に工場がまとまっているが、川口は広いので工場が一カ所にまとまっておらず、地理的に離れているのも一因かなと思う。自分も「まちこうば芸術祭」に関わるまで市内の他の工場とあまり交流がなかった。本当に携わるとすごい技術を持っているところがたくさんある。

―――川口の製造業は技術のレベルも高く、層が厚いということですね。

栗原: 川口は柔軟性があるところが多い。例えばベンチャー企業の人がざっくりした絵を持ってきて、これを作りたいといっても他ではなかなか対応できるところはない。お客さんが多い東京が近く打ち合わせもしやすい。さまざまなリクエストが来ても、ほかのところと連携して必要なものをつなげることができるので、注文に応えやすいというのはあると思う。

前田: 技術だけを見ても分かりづらいので、付加価値がある製品的なものを作って見せてイメージを上げないといけないのかな、と思う。見せる場所がもっとあるといい。

藤田: 以前、商工会議所の企画で「ぐるっとモノWaZa(ぐるっとものわざ)」という、複数の工場をめぐり見学・体験するバスツアーがあって、鋳物などさまざまな会社が参加していた。そのときにたまたま同じグループになった5社が何かやろうということになって「まちこうば芸術祭」に参加したが、こうした取り組みを続けていくには参加する企業を増やしていく必要があるし、やってみたいところと連携していく仕組みが必要とみんなで話していたところ。

 芸術祭はこんな技術があるというのを知ってもらうのにいい機会で、そこで紹介する製品は高品質高付加価値だが、手間と材料費を考えるとそれなりに高い価格になってしまう。そういう製品を買ってくれるお客さんがたくさんいるところにも出ていく必要があると思う。

栗原: 川口でのイベントは地域貢献、地域の人と交流できるので知ってもらうことが大事だと思う。工場を見学したいと訪ねてくる方もいるし、工場のツアーはやっていけるといいと思う。川口でこんなの作ってるんだ、と興味を持ってもらいファンになってもらえれば。

―――製造業・ものづくりを通じて川口を盛り上げていきたいという皆さんの熱い思いを感じました。ありがとうございました。

(敬称略)

(左から栗原匠さん、藤田一平さん、前田聡悟さん)

対談場所協力:フジテック株式会社

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